AC とは何ぞや

AC が「うちのアパートは電気代がかかるが、水道は使い放題だから、水力発電をして電気を賄おうと思う」といった類のおかしな事を言い出すのはなぜか? 最近 AC 懇親会に行ったので、AC についてよく考えてみた。AC とは何ぞや?「問題解決能力がある人」というのが筑波大学の公式の定義であるが、それではわかりにくい。AC の性質について考えると、AC は次の 2 つの条件を満たす場合が多い。条件とは、まず「自分の考えが正しいに決まっている」と信じていること、次にそれを実現するための技術力等の能力を無駄にたくさん持っていること、である。客観的に考えが間違っている場合でも、AC は正しいと信じて無駄に繰り返すので、副産物として異様に高度な経験やノウハウがたくさん貯まり、実装力をさらに身に付けることになるのである。AC とは、このようにして特定分野についての能力が異様に突出したおかしな人のことである。

普通の日本人は、たいていの場合、自分の考えにそれほど自信を持っていない。特にそれが周囲の人の考えと異なるとき、「自分の考えが間違っているのではないか」と自然に考える。ある程度自信があると思っている考えについても、せいぜい、「自分の考えが (たぶん) 正しいのではないか」という程度の強さである。この状態で周囲が反対意見を述べれば、すぐさま内省して「ああ残念、やっぱり間違いのようだ」というフラグに変わってしまう。そして、普通の人はたいていほとんどの物事について「若干の興味」がある。

一方、AC な人は、常に、頭の中ですべての物事を 2 分している。「興味が全くない物事」と、「大変興味があり、それに対して自分の考えが最初から正しいに決まっている物事」である。AC は自分が興味がない物事については特に意見をもたず、こだわることもしない。
一方、興味がある物事については、たいてい、何か確固たる考えがあり、それについて「自分の考えが正しいに *決まっている*」という異常に強い自信がある。何せ最初から「正しいに *決まっている*」のであるから、周囲が反対意見を述べたり、過去の慣習 (常識) を調査した結果自分のほうが非常識であることが分かったとしても、それは自説の修正の原因にはならない。「自分の考えが正しいに決まっている」から、必然的に、周囲の反対意見はすべて「間違っているに決まっている」ということになる。この点をみると、AC は周囲の意見や空気になじまない社会不適合者である。

なお、AC は、「自分の考えが正しいに決まっている」という考え方にはたいてい何らかの根拠があるが、場合によっては全く根拠の自覚なしに「正しいに決まっている」と決める場合もある。ただし実はそれは意識的には本人にとっても無根拠のように感じられるけれども、無意識的に、つまり過去に得た膨大な情報を脳で高速に処理した結果として出た結論として出た結論であることも多く、この場合は確かに根拠を言語化することはできないが、それでも本人にとっては「正しいに決まっている」と決めている。

そもそも AC が「自分の考えが正しいに決まっている」と考えるとき、人と議論するとき以外では、その正しさの根拠を内省して一々考えたりすることはあまりない。最初から「正しいに決まっている」のだから、内省する必要もないのである。

したがって、AC は過去の慣習や周囲の意見がいくらあっても、「自分の考えが正しいに決まっている」と考える状態を変えることはない。そして、AC が「自分の考えが正しいに決まっている」と考えることは、たいていは「厳密に考えれば間違いであるという訳ではないかも知れないけど、やっぱり常識的にはその考えはあり得ないよ」というようなことであることが多い。だから、常識的には間違いであっても、AC の言い分である「自分の考えが正しいに決まっている」は厳密に考えると大抵正しい。

AC としては「正しいに決まっている」と信じていても、落ち着いてどのように厳密に考えても客観的事実から見ると「正しくない」という結果になるような物事も存在する。このような場合、AC は実験結果などの客観的事実を見ると考えが変わり、「やはり間違っている可能性がある」と思うようになる場合もある。ただしこの場合も、一般の人は少しの客観的事実を見るだけですぐに考えが変わるが、AC は自説について大変強い考えを持っているので、いくらかの数の客観的事実を見ただけでは納得することはない。まず、必ず「そもそも、私のほうの考えが正しいに決まっているのだから、これらの実験結果はすべて間違っているに決まっている。」と考える。特に人が実験した結果は信用ならないので、自分で実験をしなければ気が済まない。自分で実験をして結果が自分に対して不利となった場合は、「実験に用いた部品が偶然不良品であったに決まっている」と考え、多数の部品を 10 個くらい買ってくる。それらすべてで自分に不利な結果になった場合は、「不良部品をまとめて 10 個買ったのではないか。別々の工場で製造された別の 10 ロットを買わなければならない」と疑うことになる。このプロセスを無駄に多数回繰り返して、ようやく、「やはり間違っていた可能性がある」と納得するのである。このような流れにかかる時間やコストは、常識から考えると、とても非合理的である。

上記だけでは、「自分の考えが正しいに決まっている」と無根拠に考える人は、単なる社会不適合者であるということになる。しかし AC には強力な武器がある。それは「目的を実現するための技術力等の能力を無駄にたくさん持っていること」である。これが、単なる社会不適合者と AC との違いである。単なる社会不適合者は、いわゆる「意識の高い人」である。「意識が高い」というのは、「相対的に、持っている能力に対して言っていることの意識が高い」という意味であり、意識だけが高くても能力がないか、能力を身につける努力が足らないかで留まれば、それは単なる社会不適合者である。

一方、AC は関心がある物事については極めて膨大な量の情報や経験を持っているので (そして不足している部分は何とかして補おうとするので)、その分野だけ、無駄に能力が高い。ただし人の過ごす時間は全員平等であるので、AC はたいていの場合、それ以外の無関心な分野についてはほとんど知識がないということになる。これは仕方がないことである。しかし、とにかく関心がある分野に関する実行力は並大抵のものではないから、「自分の考えが正しいに決まっている」という自説を証明するために、その実現能力を用いて、一般的な手法と比較すると 100 倍程度の労力を必要とするおかしな方法を用いてでも何とか作り上げてしまうのである。そのため、AC が「自分の考えが正しいに決まっている」と考えている説で、かつその説が「常識的には間違いまたはどう考えても非合理的だが、厳密に考えれば確かに正しいといえなくもない」場合は、AC は最終的には必ずそれを実現してしまう。AC にとって一番の喜びは、その結果を見て周囲の人が「これは頭がおかしい。確かにこのような非合理的なやり方であれば厳密にはできなくはないけど、普通の人は実装能力がないからこのやり方はまずあり得ない。」と驚いたり呆れたりする結果を見る瞬間である。

ごく稀に、どのように厳密に考えても客観的に間違い (不可能) であることを AC が正しいと信じて無駄に実装能力を発揮して実現しようと試みる場合もある。この場合は確かにどれだけ時間・コストをかけてもその物事は実現しない。ただし、もし普通の人が同じことをすればある程度の時間が経過したところで諦めるのであるが、AC は、「自分の考えが正しいに決まっている」と考えているので、成功するまで何度も反復的に繰り返す。この結果、たいていは意外な有益な副産物が生じる。何せ、絶対に成功しないことを何度も試みるのであるから、少しずつ違った手法を試していくうちに、まったく本来の目的とは無関係な有益な副産物やノウハウが手に入るのである。その副産物の蓄積量は、当然、無駄に試行した時間に応じて増えていく。本人にとって、副産物の蓄積量が、本来の目的の価値よりも高くなった場合は、AC は本来の目的はひとまず棚に上げて、得られた有益な副産物のほうを享受することになる。(なお、本来の目的はひとまず棚に上げているだけであり、「間違っていた」と考えている訳ではない。単に、「自分の考えが正しいに決まっているのだが、興味の対象を外れたので棚に上げておこう」と考えるのである。)

結論として、AC が何か変なことを言っていて、しかも「自分の考えが正しいに決まっている」と考えている時は、何を言っても無駄である。そしてたいていはその考えは厳密に考えると本当に正しい (ただし常識的に考えると非合理的であり無駄である) のだから、より AC 度の低い周囲の人がこれに反論して制止させることはできない。制止させようとする代わりに、適当に面白がって見ていれば、その AC は無駄に強力な実装力を用いて物事を実現させてしまうか、または途中で産出される副産物がもともとの目的を超えた時点でその副産物のほうに興味が移ることになる。いずれにせよ AC が AC な行動をすることは大変良い結果につながるので面白がって見ているのがよい。