不確実な事柄は、賛成者が多いという事実だけでそれが正しいと考えてはならない

上記は、少数意見のほうが一般に正しく、多数意見のほうが間違っているというようなことを主張している訳ではない。
多くの人が唱えている主張は、大抵の場合、正しいと思われる。たとえば、多数の人に、リンゴは栄養があるか、キョウチクトウは有毒であるか、というアンケートをすれば、ほとんどが、両方ともその通りだと言うであろう。また、実際にそれは両方とも正しいと思われる。しかし、リンゴは有益である、キョウチクトウは有害であるという知識について検討すると、リンゴとかキョウチクトウといった自然界に存在する物は、長い間その性質が変わっておらず、また、人類がそれについて検証してきた長い歴史が存在している (たとえば、これまでに何千兆個ものリンゴが安全に食べられてきた)。それ長い歴史がリンゴは安全だというような常識を作り、人々の間でそれが知られている。だから、アンケートを取ると、リンゴは安全で栄養があるという常識的な答えが多数を占めるし、また、その内容は正しいことである。


しかし、リンゴのような昔からよく検証されてきてほぼその有益性が間違い無い物は別として、それ以外の、ここ最近になって偶然流行り出した考え方のようなもので、かつ、まだ人類によって十分に検証されていないし、また、特にそれが正しいと思われる合理的根拠が無い類のものは、たとえ、多数の人がそれを正しいと信じていたとしても、正しくない可能性がある。それが正しいか正しくないかは、それを信じる人の数とはほとんど相関が無いと考えるのが安全である。
たとえば、科学的な仮説や、宗教や、政治的思想や、政策などは、それが正しいと思っている人が多いからといって、正しい可能性が高い (間違っている可能性が低い) ということは、全く言うことができない。
地球が平らで、航海すると崖から落ちてしまうとほとんどの人が信じていたからといって、その「地球が平ら」だということを、何らかの合理的な方法によって検証するまでの間は、その考えが正しいと言うことはできない。しかし、その状況では、間違っているということもできない。
一番確実で安全なのは、合理的根拠がない仮説について、それを「正しい」とも「間違っている」とも決めずに、それが正しかったとしても、間違っていたとしても、どっちの場合でも特に利益も損失も生じないような選択をすることである。ただし、何もしないのでは儲からないので、あえて、自分の合理的判断と責任において、それが正しいと思えるのであれば、それに対してリスクをとることも自由である。
たとえば、地球は平らで、また海の果てに断崖絶壁があると思われているときに、「それは間違っている。地球は丸いに違いない。」と合理的に判断し、交易船を購入し、貨物をたくさん載せて、貿易のための旅に出ることは、その判断者にとっては、合理的な考えに従って行動したのであり、他人がいくらそれは非合理的だといっても、その判断者にとっては合理的だったのだから、その判断者は正しい行動をしたのである。これは賭け・博打ではなく、また、サイコロを振った訳でもなく、単に、自分の合理的な考えで行った行動である (反対意見を持つ他人には、そうは見えないかもしれない)。その場合、その判断者が拠っていた合理的根拠に重大な間違いがあったとしたら、後に、判断者はそのことについて気付き、また、それによって自分に損失が発生した (最悪の場合は、生命を失うことになった) ことを認知し、自分の合理的な考えをするはずの頭が欠陥品であったことを反省し、次の重要な判断の時までに修理しておこうと決意するに違いない (もっとも生命を失うことになった場合はこの限りではないかも知れない)。


地球は平らだと思っていたところ、隣人の頭のおかしい (ように自分には見える) 船乗りが、「地球は丸い」と突然言い出して、地球の裏側の人との間で貿易するために、交易船と交易物品のための資金を集めたい (当然、儲かったらあとで出資者の間で配分することは約束する。しかし損失が出たら資金は返ってこない) と提案してきた場合について考える。
もし、その頭のおかしい (ように自分には見える) 船乗りの周囲の人が、その新しい考え方について熱狂し、熱狂のあまり合理的な判断を損なって、皆が自分の財産を、その船乗りに自主的に供出し出したとする。その状況で、自分はどのようにするべきか。単に周囲の皆が熱狂的に自分の財産をその冒険のために供出しているからといって、自分も、熱狂してそれに付和雷同してはならない。一番良いのは、その熱狂している周囲の急進派の人たちに、何か合理的な根拠があってその出資をしようとしているのか、それとも気まぐれで、雰囲気によって後押しされてその出資をしようとしているのか、を聞いてみなければならない。そのうち 1 人でも、合理的な根拠があるといって、その根拠を教えてくれて、かつ、自分でもその理論をよく検証してみて、確かに正しいと自分で合理的に判断できれば、出資するべきである。その「十分に検証する」という行為に要求される厳重さは、その「地球は丸い」というアイデアが、自分で思いついたときでも、他人によって思いつかれたときでも、同等に厳重である必要がある。
もし、自分で検証してみた結果、「地球は丸い」論が正しいと判断するのに合理的な根拠を見つけることができなかったときは、いくら、他人が、それは正しいと言っていても、また、他人が「地球は丸いことを合理的に説明するための論文」のようなものを出していたとしても、それを聞いたり読んだりして検証し (その検証の過程で、自分と同じくらい頭が良い信頼できる他人の意見を聞いてヒントを得ることは有益である。自分 1 人だけで閉じこもって検証しろという意味ではない)、自分の頭で合理的に納得することができないのであれば、それに出資してはならない。
そして、自分が出資しなかったその事業の経営者である隣人の頭のおかしい (ように自分には見える) 船乗りの「地球は丸い」論が正しかったことが後になって報告されたのを見ても、合理的な判断でそれに出資しなかった人は、後悔することはない。なぜならば、その合理的な判断でそれに出資しなかった人にとっては、その事業の報告が来るまで、「地球は平ら」か「地球は丸い」かのどちらが正しいかどうか判断する術はなかったのあり、そこを「地球は丸い」ほうに仮に賭けていたとしたら、儲かったかもしれないが、それはギャンブルをする (宝くじを買うとか、ブラックジャックをするとか) と本質的に同じ行為であるからである (もちろん、自分は運が良いので、ギャンブルをすれば儲かるに違いないと合理的な判断の結果信じるに足る人は、ギャンブルをしても良いし、するべきである。ただし、その合理的な判断が本当に合理的かどうかは、その人が、自分の責任で、慎重に検証しなければならない)。