私的投資事業の安全性と政府による公共投資事業の危険性

上記の交易船の事業のような仮定の話は、現代においては、(1) 金融商品市場とか、(2) ベンチャー投資とか、また、(3) 政府の公共投資といった話にも当てはまる。


(1) と (2) はどちらも、合理的な判断で、出資者個人個人が、それに投資するか投資しないかを合理的に考えて選択することができる。
事業運営者側は、合理的な指針 (つまり、その事業がどれだけ儲かり、どれだけ出資者個人の利益を生み出すか) を文書 (目論見書) や口頭 (説明会) で示す。それを読んで、たとえば、山田さんは、合理的に儲かる可能性が高いと思い、それに投資する。木下さんは、無関心なのでそれを読まないか、または、読んでも、非合理的だと思ったのであえて投資しない、という具合である。
事業がうまくいけば、山田さんは利益を得る。木下さんは得も損もしない。事業が失敗すれば、山田さんは損失を得る。木下さんは得も損もしない。木下さんは、無関心であり、無関係である。木下さんに被害は出ない。


一方、(3) の政府の公共投資は、性質が異なる。
まず、本来理想とするプロセスとしては、政治家は、合理的な指針 (つまり、その事業がどれだけ税金の出資者である納税者に対して将来的利益を生じさせ、どれだけ納税者の富を生み出すか) を文書 (マニフェスト) や口頭 (演説) で示す。
それを読んで、たとえば、90% の人は、非合理的な判断で、政府または政治家の言うことだから内容は検証しなくても信用しても良いはずだと思い、それに賛成の投票をしたとする。10% の合理的な人は、よくその政治家または政府の説明を読んだところ、どうやらそれは失敗して納税者にとって損失が生じるのではないかと考え、合理的な判断に基づいて、反対の投票をしたとする。
結果、賛成多数なので、その事業のための出資金として、税金が全員から徴収される (その事業が非合理的であると思って反対していた人からも徴税される)。そして事業が失敗すれば、90% の非合理的な人も、10% の合理的な人も損失を得る。誰も得をする者がいないという結果になる。(1) や (2) と異なり、または、事業について関心があったので説明を読んでみるとこれはどう見ても非合理的で失敗するに違いないと思っていたので反対した人も、その損失を支払わされる。
これが、公共投資の危険なところである。


私的投資であっても、公共投資であっても、出資者それぞれが、合理的に判断し、それに手を出したほうが利益に適う (すなわち、究極的には、自分の財産、より現実的には、生存に必要な食糧その他のエネルギーが、老衰死するまでの間に尽きないような十分な量確保できる、そしてまた食糧以外の価値のある楽しみのために消費できる財産も確保できる) と思った場合にだけ、その人が投資をすれば、問題は生じない。その事業が失敗した場合に、損をするのは、合理的判断をしたと思って投資した人だけである。結果として、その投資者は、自分の損失によって痛い思いをして、自分の合理的な考え方に、気づかなかった欠陥があったことを認め、次の投資の機会までにそれを修理しておこうと考える。つまり、より賢くなる。
一方、誰でも強制的に (賛成派の人数が反対派の人数よりも多いという理由だけで) 強制的に参加されられる公共投資というのは、多くの人が合理的判断をする能力が無い状況では (つまり、投票をするときに、その投票行為が合理的判断によって行われたものか、それとも、周囲の雰囲気や熱気に押されて非合理的に投票するものなのかを判断する技術的方法が無い状況では)、合理的判断が介入する余地がなくなってしまうので、その投資事業に失敗して損失が出たときに、その原因を「多数の賛成派が賛成していたのだから仕方が無い、誰にも責任はない、あきらめよう」という、危険な安心感のある結論に帰着させてしまう。
自分に責任があることを悟って痛い思いをするということがないから、国民は、合理的判断をしなければならないという、本来回避することができない責任を、短期的なその危険な安心感のある結論によって一時的に回避してしまう。これが何十年、何百年続いたところで、国民が賢くなることはない。一方、経済的損失は、常にある一定の確率で生じてしまう (公共投資は、非合理的な判断をし続けている限り、一定の確率で頻繁に損失を生じてしまい、合計すると大幅なマイナスとなってしまうためである)。
そのままでは、賢い合理的な選択をする他の国家に、国民が賢くないままの国家は、次第に負けてしまう。