全納税者に政府が公共投資を強制することの非合理性

政府が主体となる公共投資で、かつ、税金を財源とするものは、いってみれば、以下のような状況に似ている。
たとえば、山道で道が左と右に分かれているとする。ここに 3 人の登山者がいる。3 人の食糧は尽きかけている。立ち止まるか引き返すと食糧はなくなり餓死してしまうことがわかっている。左へ行くか、右へ行くか、選択しなければならない。どちらかの道の先には、食糧小屋があることがわかっている。また、反対側の道の先は、行き止まりであることがわかっている。しかし、左右のどちらが正しいか、3 人の間で統一見解がない。どちらの道も、一度選択すると、引き返せない状況だとする。
3 人 (A さん、B さん、C さん) は左右に分かれる所で立ち止まる。A さんは、昔、地図を見た記憶があり、左の道を行ったところに食糧小屋があった気がするということをかすかに覚えている。だから、A さんは、左に行きたいと思っている。
B さん、C さんにはそのような知識はないが、B さんは知ったかぶりなので、特に根拠無く「右が正しい」と主張する。B さんは知ったかぶりなので、特に合理的な考え無く物事を決めることが多く、また、一度主張したことは、撤回したくない人である。さらに、声が大きく、暴力も得意である。
C さんは、あまり強くはないが、合理的な考えよりも、声が大きい考えに従ってしまう頭の弱い人である。
ここで、B さんが「右が正しい。特に根拠はない。」と言ったところ、A さんは当然「私は左が正しいと思い、その理由は、地図にそう書いていったからだと思うが、100% 確かではない。しかし、右が正しいという根拠は B さんには無いようなので、私は左へ行く。」と言うであろう。それを聞いた B さんは怒って、「右が正しいに決まっている。一度言ったことは撤回しない。」と大声で言う。C さんは B さんの大きな声が好きなので B さんに賛成する。
A さんは「私は左が正しいと自分の責任と判断で選択するが、100% 正しい確証はないので、B さん、C さんの意見も尊重する。そこで私は左へ行くが、B さん、C さんは右に行けばよい。」と言う。すると、B さんは「多数決で決めたことに従え」とか「一部の人だけが生き残って他は死ぬのは許せない」とか言ってとても怒り出し、C さんと一緒になって、A さんを強制的・暴力的に連行して右の道へ連れて行く。
結果としては、A さんの記憶の中にあった地図は正しく、左が正解であり、右へ行くと何も無いので、3 人とも餓死してしまう。


このストーリーでは、自己の責任において自己の行動を決定するための根拠として合理的な判断をした A さんに対して、B さん、C さんは非合理的な判断に基づいて A さんとは反対の結論を出した。この時点で、A さんは左、B・C さんは右に自分の責任で行けば良いのである。しかし、B さんは多数決の結果を暴力的に A さんに押し付け、3 人とも右へ行ってしまい (A さんとしては自分の意思とは関係無く右に連行され)、そして 3 人ても死んでしまう訳である。
このように、どちらを選択すれば良いのか、はっきりした指針が無く、不確実な状況においては、多数決によって物事を決めてはならない。逆に、サイコロを振って決めればよいという訳でもない。そうではなく、各自がそれぞれ自分の頭で合理的に考え、その結果出てきた結論を、各自が採用すれば良いのである。


だから、政府は、税金を財源とする事業は、成功するか失敗するか不確実な状況においては、実施しないほうが良い。それを実施することは、納税者のお金を使ってギャンブルをする行為である。
一方、政府が主体となって、希望者に対して正確にリスクを説明し、税金とは別に、出資金を国民から集めて、それで事業を行うのであれば、それは、私企業が運営する事業と同様に、失敗した場合の損失は、それに投資をした (またはその他の形式でお金を貸した) 人だけで責任を負うことになり、無関心な人、または反対意見のある人にとっては損失はないので、大変良いことである (ただし、政府がその損失を埋めるために税金を使ってはならない。また、そもそも、それをやるのであれば民間企業が行えば良いのではないかという主張も有り得る。)