人間が生存するためには、自分の頭で合理的に考えなければならない

人間は、生存したいと思うのであれば、そのための具体的な方法を、何も考えないわけにはいかず、いい加減で非合理的な考えによるものではなく、かといって人に考えてもらうのではなく、自分の頭で合理的に考えて、判断・選択し、それによって行動しなければならない義務を自然によって自動的に負わされている。
生存するためにはこの義務を履行しなければならず、義務を放棄したときは遅かれ早かれ、まだ生存したいと考えているにもかかわらず、強制的に、自然によって死亡させられることになる。


自分の頭で合理的に考えることは非常に重要である。今のところ、その行為無しで、自分の希望通りに (生存し続けたいと考えているにもかかわらず死亡させられてしまうことなしに) 生存し続けるということを実現する現実的な方法は発見されていない。
なお、自分の頭で合理的に考えることは、その生存したいという希望を満たすための必要条件ではあるが、十分条件ではない。自分の頭で合理的に考えていたとしても、他の予期せぬ防ぐことが困難な出来事 (たとえば自然災害や、狂人によって殺害されるなど) によって、自分の生命が中断されてしまうことは起こり得るから、自分の頭で合理的に考えるということだけで継続的な生存が保証してもらえる訳ではない。しかし、自分の頭で合理的に考えることは、そういった不測の出来事から身を守り、そういうことが起こった場合に自分が被害を受けないようにするための事前準備を行うことができることにつながるので、そういったことにより死亡する危険性を軽減することはできる。ただし危険性はゼロにはならない。また、不老不死が得られる訳でもない。わずかでもリスクが存在していることと、寿命があることは、自然によって強制されている規則で、これを否定することは不能である。


一方、自分の頭で合理的に考えることを拒否した場合は、そもそも、自分の希望通りに生存し続けるということは不可能になる。自分の頭で合理的に考えて行動しないように決めた人のとることができる行動パターンは、以下の 3 通りのうちいずれかである。


1 つ目は、何も考えずに漠然としていることである。しかし、これでは食糧を手に入れることができないので、しばらくして、死亡してしまうから、良い方法ではない。


2 つ目は、非合理的に思い付いたままに行動することである。非合理的に行動するということは、直感によって正しいと思う行動をするという意味は含まない。直感によって正しいと思う行動をすることは、その直感が正しい指令を脳内で発してくれていることについて何らかの合理的な根拠を持っていて、その上でその直感に従うということだから、その行為は合理的である (たとえば、計算機の計算能力を信用している人が、その計算機が毎回正しく動作しているか検証することは不可能なことはわかっているにもかかわらず、その計算機の計算結果をもとにして行動を決め、代わりに自分の表面意識で筆算をすることを怠っていたからといって、その人が、合理的な判断で、責任をもって、その計算機の計算能力が信頼するに値すると考えてそれに従っているのであれば、それは合理的な行動である)。
この文脈での「非合理的に行動する」ということは、前述のような合理的な根拠なく、ただ単に、思い付きで無秩序に行動するという意味であり、いわば、サイコロを振って出てきた目で次の行動を決めるというようなことと等しい行為である。この方法では、満足な食糧を手に入れることができない。


そして 3 つ目は、他人が考えた結果に従って、他人がそう考えているというだけで、自分もそれと同様に行動するということである。たとえば、隣人がある行動原理を支持し実践しているのを見て、自分は、それに触発され、真似をするというような行動方法である。単に隣人というだけではなく、複数の人間の集合であるグループの多数決で決定された意見に従うというのも、同様である。


上記の 1 つ目と 2 つ目の行動パターンを選択するべきではないことは明らかである。そこで、ここでは、3 つ目の行動パターンを選択することについてよく考えてみる。


3 つ目の行動パターンにおいて、他人の考えた結果を真似するということは、自分にとって、有益な場合と、有害な場合とがある。
たとえば、他人が、リンゴを食べると栄養になると言ってリンゴを食べているのを見て、それを真似して、リンゴを食べて栄養を摂るのは、有益である。一方、他人が、キョウチクトウを食べると栄養になると言ってキョウチクトウを食べているのを見て、それを真似して、キョウチクトウを食べることは、それに毒が含まれているので、有害である (この場合、しばらくして、その他人も、自分も、二人とも病気になるか、死んでしまうかも知れない)。
つまり、自分は、その当該他人が言った意見を、他人が言っているからといって信用してはいけない。何か他の方法で、その意見が自分にとって有益か有害かを検証しなければならない。たとえば、リンゴや、キョウチクトウについては、植物に関して信頼に値すると自分の判断で合理的に考えられる文献 (百科事典など) を探して、それをもとに判断するか、もし合理的な判断の結果そのような文献が未だ信頼するに当たらないと考えるのであれば、たとえばそこらへんの実験動物 (ネズミなど) に事前に食べさせてみて死亡しないかどうかを自分で見て判断するか (ただし、ネズミが食べて死ななかったからといって人間が食べても大丈夫かどうかは、これだけではわからないのかも知れない) しなければならない。
合理的な人々が、自由意思で、リンゴを喜んで食べ、キョウチクトウを避けて食べないのは、何らかの合理的な根拠に基づいてそれらが有益か有害かを判断しているからであり、他人が食べているのを見たからではない(自由意思によらずして食べされられた昔の経験による場合もある。たとえば、幼少期において、保護者に強制的にリンゴを食べさせられ、そのとき、リンゴをおいしいと思い、かつ、それから何年かたってもリンゴによって自分が病気になったり死亡したりした事実がないので、自由意思によって、後日、リンゴを食べるか否かを選択するときには、食べるということを選択する。これも合理的な判断の形態の 1 つである)。


つまり、自分の生命を大切にするためには、3 つ目の行動パターン (他人の意見に従って行動する) を選択する際に、当該他人の意見について、それを、自分が思いついたアイデアを検証する場合と全く同様の手順に従って、合理的に検証し、その行動を行うかどうか判断しなければならない。
単に、周囲の人が皆そう考えているから、という理由で、その考えてに従って行動するだけではなく、その考えが合理的に正しい (つまりその考えを選択することが、自分の生命を、自分の希望によらずして死亡してしまうことを避け、継続的に維持するために有益である) かどうかを判断して、それに従うかどうか決めなければならない。


したがって、他人の意見に従って行動することができる状況であるからといって、そこで自ら合理的な判断を行うことが免除されるということにはならない。自分が思いついた考えであっても、他人の言っている考えであっても (それが少数意見か多数意見かにかかわらず)、その考えを選択するときは、自分の責任で、頭を使って、合理的に選択する必要がある。