『AC』(エーシー)とは

softether2004-09-29

私は、もちろんのことながら、AC である。
『AC』(エーシー)とは、筑波大学用語である。
筑波大学には5年程前より『AC入試』 (Admission Center 入試: http://www.esys.tsukuba.ac.jp/AC/) という入試制度がある。AC入試とは筑波大学独特の入試で、一般的な推薦入試ではなく、受験者自らが「問題解決能力」を持っていることを示すことによって入学することができる入試である。他大学でやっている「AO入試」とも少し違うが、まあ同じようなものである。
ただ、普通の大学のAO入試は「エーオー」と発音するので大したこと(?) は無いが、筑波大学はなぜかAC入試なので大声で『エーシー』と発音するので、少し特異な感じがする。
AC入試に合格することによって入学しようとする人は、「自己推薦書」という、自分が中学・高校時代にどれ位変なことをやってきたのかをまとめた資料を作成し、毎年9月ごろに筑波大学に送付する。この自己推薦書を筑波大学の各学類担当の教授が読み、「こいつはACかも知れない!」と思った人だけを10月に筑波大学内で開催される「AC入試二次選考(面接試験)」(AC大会と呼ぶ)に呼び、面接によってその書類を書いたのがAC志願者本人であることを確認する。その結果、めでたく『AC認定』された人は、入学年度の前年度の10月末には筑波大学への合格・入学が決定する。
だが問題がある。大抵のAC入学者は、10月末に合格が決定しているので、その後は受験勉強などをする必要が無いのであまり数学などの勉強せずに筑波大学に入学する。また、通常筑波大学の例えば工学系の学類に入学するには、数学・物理・英語に関する高度な受験知識が必要とされるが、ACはそういう試験を受けずに入ってくるので、大抵これらの学問は不得意である。
たとえば、情報学類では、極端にコンピュータやネットワークなどに詳しいにもかかわらず、解析学や物理などの単位を落とすような人(そしてそういう人たちが集まってつくるグループ)が存在するが、彼らは間違い無く『ACの人たち』である。情報学類で3年次、4年次になって、「今年で解析学4回目だよ〜」などと言っている人はACに違いない。(※解析学は1年次の講義であり、ほとんどの人が1回で単位を取得できる。)

『AC』であることについて

上記のような理由で、少なくとも1、2年前までは筑波大学内にAC入試で入学した人は、自分が「AC」であることが周囲にばれると、成績が悪かったり行動などが変わっていたりすることによって馬鹿にされたりする危険性があり、自らが『AC』であることをひたすら隠し通そうとしていたようである。
たとえば、ACであることがばれると、周囲から 「あいつACらしいで!」 などと指さされて言われるというイメージがあるようだ。
普通の、AO入試をやっているような国立大学などで「あいつAOらしいで!」と言うような場面は、まず無いのではないか。しかし、筑波大学のACだけは例外であって、「あいつはエーシーだ」などというように面白がって発音されたりしていることもよくあるみたいである。
たとえば、筑波大学生の掲示板のスレッド「AC入試」 http://bbs.tsukuba-ac.jp/read.aspx/2763 に、下のような書き込みがある。

> 武士>>>>農民>>>>えた        アウトカースト(畜生)
> 現役前期 現役後期     推薦          AC
>        一浪前期  一浪後期

> ACは筑波の恥

> ACってのは
> 学生と外国人とを触れ合わせるために、学校が留学生を積極的に受け入れている如く
> ドキュンと触れ合わせるために受け入れているんだよ 

> AC入学者はそれと一目でわかるように、学内ではACバッチをつけることを義務付けよーよ 

AC入試で筑波大学に入学した人は、大抵は中学か高校のころに変わった凄いこと(ACなこと)をして、その実績をアピールしてAC入試に合格したのであるから、大抵筑波大学に入ってからも変な活動をやっていたりする。全代会とかなんとか祭実行委員会とかには文系のACが多いし、情報系のACはコンピュータに関する知識が常人と比べ物にならないほどあったりする。また、AC同士で群れを組むことが多いのも、ACの特性である。

筑波大学の最近のACは、若干性質が変化してきているようである。どうやら、自分がACであることを隠したがらずに、積極的に「AC!AC!」などと言って回るという奇妙な行為をしたりする。

まあそれはいいとして、大抵の場合ACとは他とは違う何か凄いこと(ACなこと)をやっているような人を指すようである。

AC入試で入学した訳では無いが、『AC』な人たちについて

また、近年においては『AC』という用語の意味が拡大しており、ACというのは必ずしもAC入試で筑波大学に入学した者を指すのでなく、ACっぽいことをしている人やACのような考え方をしているような人のことをすべて包括して『AC』と呼ぶこともある。というか、自分の周囲では最近はほとんどそのような広い意味で物事を表現するすばらしい言葉として使用されているようである。

この定義においては、たとえば情報界においては、有名なすごいオンラインソフトを作っているような人たちは大抵ACと呼ばれる。プログラミングが人並み外れてできる奴もAC、一日中ロボットを作っているような人たちもAC、ネットワーク機器のアクセス・インジケータのLEDを見てニヤニヤしているような人ももちろんACである。つまり、ACとは素晴らしいのである。

(仮説)『ACの法則』の発見

大抵の場合、ある人に出会うとその人が(広義の)ACかどうかは、直感的にわかるものである。そしてほとんどの場合その直感は外れることは無いようだ。ACな人は、行動や言葉・考え方やレスポンスなどに特有の性質を持っている。
これまで何百人の人に会ってきたと思うが、それらの人々は「AC」か「ACでない」かどうかの2通り、つまり Boolean 型的に完璧に分類することができる;中間層は存在しない。必ず、ACかそうでないかに二分することが可能である。

ところで、ACな人とそうでない人の違いは何であろうか。つまり、同様な生命体として誕生する各個人について、どのような要因によって「ACになるか」、「ACにならないか」が決定されるのであろうか。これまで数多くの両パターンの方々とお会いしたが、どうも「これは!」という決定的な特徴点が見つからなかった。

つまり、これは、たとえば子供ができた親などが、「うちの子を立派なACに育てたい!」などと所望した時において、どのようにすればその子供がACに育つのか、という議論の答えとなるべきものであり、これこそまさに我々のような既にACになってしまった人たちが必死で求めているものであろう。

ある人が、成長の過程でACになるか、ACにならずに普通の人になるかは、何らかの共通の法則によって決定されるはずである。ここで、この法則が存在すると仮定して、『ACの法則』と呼ぶことにしよう。

私の個人的な考えでは、『ACの法則』が存在する場合、つまりACになるかどうかを決定するポイントがあり、ACになるかどうかは大体 12、3歳位の頃までに決定されるものであると考える。

この『ACの法則』、つまり普通に生まれてきた人がACになることを決定する法則さえわかれば、たとえば文部科学省などが小学校教育過程などにおいて、日本国内でACを大量に育成するような施策をとることも可能ではなかろうか。

"永遠の謎" の解決の糸口

私がこれまでお会いしてきたACな人たちの間には、現在の時点においての特徴はもちろん存在する(というか、その特徴を持っている人を『ACな人』と読んでいる)のだが、その人たちがACになるまでの間に成長してきた過程において、何らかの共通点があるものだと確信していたが、これまでそのような共通点を見出すことができずにいた。
その人の子供時代の家庭環境、教育方針、家族構成、進学パターン などを見ても、ACの人たちの間でそのような事柄に関する相関性はほとんど見られなかった。このようなことについては、各AC間でバラバラであり、特に共通点は無いのである。

しかし、ついに『ACの法則』を発見することができたかも知れない。
これまで会ってきた、少なくとも工学系のACな人のほぼ全員が体験した共通のイベントがあったのである。

『ACの法則』(仮説) の後半については、次の日記で書く予定である。