所得の再分配に関する考察と疑問

せっかく色々な面白いことがこの世界にはあるので、最近はコンピュータのことだけではなく、他の分野のことについても勉強をしようと思っています。そこでコンピュータ以外のことについてはまだまだ素人ですが、格差問題や富の再分配に関することについて調べていて 1 つの疑問が思い浮かんだのでメモしておこうと思います。


先進国では、政治や経済に関する議論や主張が盛んです。日本も一応は先進国の 1 つであり、日本人にも、人々は本来平等なのであるから、人々の間の格差を是正するべきだと主張したり、所得の再分配をするべきだと主張したりする人がいます。いわゆる、結果平等を求める意見です。政治的には、リベラル (自由) 派というらしいです。一方、人々に対して努力するチャンスはできるだけ平等に与えるのが望ましいが、そのチャンスに対して努力した結果、各人が得られた成果はそれぞれの各人のものであり、それを強制的に奪取して配分する所得の再分配はよくないのではないかと主張する人もいます。いわゆる、機会平等は重要であるが、結果平等を求めてはいけないという意見です。政治的には、コンサバティブ (保守) 派というらしいです。


前者の結果平等を求める意見は、自然な競争で発生した結果に人工的に手を加える操作を肯定しています。一方、後者の機会平等を求める意見は、あるがままの結果としての状態を肯定しています。


個人的には、あるごくわずかな最低ラインのみ、必要悪として所得の再分配を行うのが善いのではないかと考えています。しかし、ここでは、所得の再分配を行うべきか否か、どちらが世界にとって善いものであるかという議論はしないことにします。


極端に高所得な人と、極端に貧乏な人との間を平滑化するために、所得の再分配を行い、格差を縮小することが正しいと主張する人がよくいます。日本に住んでいる人の中にも、そのような主張をする人がいます。たとえば、日本国内において年収 1,000 万円くらいの人が 5%、年収 300 万円くらいの人が 95% いると仮定すると、これは不平等であるから、所得の再分配をして、平均して全員 335 万円くらいの所得にすれば、格差はなくなってたいへん良い、という主張です。
つまり、高額所得者グループに属している人々と、低所得者グループに属している人々との間で、格差があるのはよくないので、格差を解消し、そもそも、所得別のグループ (クラス) のようなものが消滅する程度に所得の再分配をしようという発想です。


人々の間で、所得額によるグループ (クラス、階級) が自然発生し、格差が生じている現状は良くないから、それを是正しようという主張について、より深く考えてみることにします。格差の是正を行い、人々の間での所得額による階級を消滅させるという考えを正当化している大義名分は、すべての人は平等であるから、所得の格差が生じているのは誤った状態 (エラーがある) であって、それを本来の正しい (エラーが無い) 状態に修正するべきだという考え方です。


すべての人が平等である、結果が平等でない場合は人工的に手を加えて平等にすべきだ、という考え方は、つまり、人々の間における格差を生じさせるグループ (クラス、階級) は解消されるべきであるという考え方であり、これは理想としては大変美しい考え方であります。
すべての人は平等である、人々の間における格差を生じさせるグループ (クラス、階級) は解消されるべきである、という美しい考え方について、深く考えてみると、「人」というのは人間を指すものであることは明白であり、「バクテリア」や「カラス」、「ハムスター」などの、人間ではないが生物である者についても、人と同等の平等化の対象として含む訳ではないということは自明でしょう。たとえば、すべての人間には最低月額 10 万円の給付金を与えるべきだという意見はいくらでもありますが、「カラス」と「人間」との間に格差、階級があるのはけしからん、すべての「カラス」にも「人間」と同様に最低月額 10 万円の給付金を与えるべきだという主張は聞いたことがありません。したがって、「すべての人は平等である」の「人」とは、「人間」を指しています。


人間は、本来平等で、人々の間における格差を生じさせるグループ (クラス、階級) はないほうが良いという考え方は美しいかも知れませんが、現実には、グループ (クラス、階級) というものがあります。所得の再分配を主張することは、究極的には、人間の間の、所得に係るグループ (クラス、階級) を解消するべきであると主張することと同義です。それぞれの人の住所、職業、特技、能力というのは、人それぞれ固有の属性を持っていて、それはそれで良いのだけど、それらを活用した結果得られた所得は人々の間で平等に再分配しましょう、ということを目標にする考え方です。これが、所得の再分配における究極的な目標です。


完全な所得の再分配とは、人の住所、職業、特技、能力にかかわらず、それぞれの人が得た所得の再分配を意味します。たとえば、都会に住所がある人と、田舎に住所がある人とでは、都会に住所があるほうが仕事をし易いので所得は高く、田舎のほうでは相対的に所得は低くなりますが、所得の再分配を行う上では、都会で得た高所得を田舎のほうで所得が相対的に低い人々に移転することになります。たとえば、日本では、首都圏で得られた富を、過疎化が進んでいる地方の人々の再分配するということをやっていると思いますが、これは、人の住所にかかわらず、人々の間で所得を再分配することを目標にしていると思われます。


所得の再分配を肯定する意見を支える大義面分である、人間は、本来平等で、人々の間における格差を生じさせるグループ (クラス、階級) はないほうが良いという考え方を考慮すると、所得の再分配というのは、特定の地域に住所を持つ人たちの間だけで行ってはいけないということになります。また、特定の職業を持つ人たちの間だけで行ってはいけませんし、特定の特技、能力を持つ人たちの間だけで行ってはいけません、ということになります。たとえば、六本木ヒルズに住所がある人たちの間でだけ所得の再分配を行い、日本に住所があるその他の人たちの間だけでそれとは別の所得の再分配を行ったとしても、それではダメだと所得の再分配論者は言うに違いありません。住んでいる地域によって所得格差がある場合、住所ごとにグループ化し、その特定のグループ内で所得の再分配を行えばよいということになれば、金持ちはだいたいほとんど金持ちのまま、貧乏な人はだいたいほとんど貧乏なまま、あまり変わらないということになりますので、所得の再分配論者が目指している、「人々の間での所得格差をなくす」ということは実現できません。


すると、人間は、本来平等で、人々の間における格差を生じさせるグループ (クラス、階級) はないほうが良い、だから所得の再分配を行おう、という主張に従うためには、どうやら、住んでいる地域とは無関係に、すべての地域に住んでいる人を対象として、所得の再分配をする必要があるということになります。特定の地域だけを指定し、その地域の人だけで所得の再分配を行おうとか、または、特定の地域だけは所得の再分配から除外しようとか、そういう差別は許されないということになります。なぜならば、そのような差別こそが、「人間は、本来平等で、人々の間における格差を生じさせるグループ (クラス、階級) はないほうが良い、だから所得の再分配を行おう」という公正・公平で美しい主義・主張に真っ向から反することであるためです。


さて、所得の再分配はすべての本来平等であるはずの人々の間で行われるべきだということになると、特定の地域だけを指定し、その地域の人だけで所得の再分配を行おうとか、または、特定の地域だけは所得の再分配から除外しようとか、そういう差別は許されないということになりますから、必然的に、「東京都の中だけで」とか「関東地方の中だけで」とか「日本国の領域の中だけで」とか「極東地域の中だけで」とか、そういうような特定の地域を規定してその中に住所がある人の中だけで所得の再分配をすればそれで足りる訳ではないということになります。地域を特定せずに、すべての地域に住む人々の間で所得の再分配をしなければなりません。「地域を特定せずに」というのは、つまり、この地球に住むすべての人々の間で、ということになります。(地球の外には、通常は人間は生息していないので、今日のところはとりあえず地球の中だけで良いと思われます。)


所得の再分配を正当化する究極的でかつ最も美しい理想である「本来平等で、人々の間における格差を生じさせるグループ (クラス、階級) はないほうが良い、だから所得の再分配を行おう」という大義名分を根拠にして所得の再分配を主張する人は、「この所得の再分配は日本の中だけで行う」というようなおかしな主張をすることはできません。日本の中だけで所得の再分配を行い、それ以外の地域は除外するということは、住んでいる地域によって、その所得の再分配の対象とするか否かを分け隔てる考え方になります。世界規模で考えた場合、日本は相当な金持ちの集まりグループということになります。前に、年収 1,000 万円くらいの人が 5%、年収 300 万円くらいの人が 95% いると仮定する話を出しましたが、このようにお金持ちが 5%、それ以外の人が 95% いるという人口の割合を世界規模で考えると、日本国民のほぼすべてが 5% のお金持ちのほうに入るでしょう。もし、ここで「日本国民の間だけで所得の再分配をしよう。それ以外の地域のことは考えない。」ということにして国内だけで所得の再分配を行うとしたら、それは、単に、特定の金持ちグループの間だけで所得の再分配をしているだけであり、到底、「本来平等で、人々の間における格差を生じさせるグループ (クラス、階級) はないほうが良い、だから所得の再分配を行おう」という大義名分とはほど遠い行為をしていることになります。


もし、本当に真摯に人々の間での結果平等を熱望している人がいるとすれば、その人は、「日本に住所がある人の間だけで所得の再分配をするべきだ」という、地域を限定した所得の再分配主張をするはずがありません。日本を含め、世界中、特に特定の地域に限定されずに、どこに住んでいる人との間でも所得の再分配を行うべきだという論が最初に出てくるはずです。


「日本人が日本の国の法律で所得の再分配を決めたとしても、日本の主権が及ぶのは日本国の領域のみで、他の国には及ばないから、日本において所得の再分配を肯定する主義主張をする場合は、日本国の領域だけを対象とする必要がある、だから世界の他の地域のことについては考えても意味がない」という反論をする所得の再分配を肯定する論者もいるかも知れません。しかし、日本人の平均所得と、世界のすべての人々の平均所得についてよく考えてみると、正確な統計がないにしても、もし、本気で、所得の再分配論者が世界中の人々の所得を平等をしなければならないと主張するのであれば、日本国にある国民の総所得のうち 90% 以上を海外の発展途上国の人々に対して配分する必要があります。日本国の国民にはほとんど所得が残りません。つまり、所得の再分配を本気で行うためには、日本人はほぼ誰一人として例外なく、大半の財産を海外の貧困層に対して再分配しなければならないということになります。そうすると、これは日本人の側から外国の人に対する一方的な流れのお金の流れであり、逆に日本人が外国の側からもらえるお金はありませんから、日本国内で所得の再分配を強制する法律を作りたいのであれば、日本国民から税金を 90% 以上強制徴収し、それを、恵まれないアフリカなどの他国の国民に対して政府が寄付をすべし、という法律を作れば良い訳です。これならば、他の貧困国に対しては単なる寄付をするだけですので、その国の主権を侵害したり、内政干渉をしたりする必要はなく、日本国内だけの議論で実現することができそうです。


しかし、日本で所得の再分配をするべきであると主張する人は大勢いても、このように、日本の国民から 90% や 95% の税金を強制徴収し、それを海外の発展途上国にいる貧困層に再分配するべきであると主張する人には、あまりお目にかかりません。せいぜい、日本は発展途上国に対する少しばかりの金銭的援助を税金を使ってしているだけあり、それが我々日本国民の納税金額に占める割合はほんのわずかです。それ以外の税金は、大半が、日本国内における福祉とか保険とか公共事業とか公務員への給与とか、つまりは「日本の領域に住所がある人の間だけでの」所得の再分配に使用されています。


ここまで考えた結果、どうやら、日本において所得の再分配を声高に主張する人というのは、実は、「人間は、本来平等で、人々の間における格差を生じさせるグループ (クラス、階級) はないほうが良い、だから所得の再分配を行おう」という考えを動機として所得の再分配を主張している訳ではないのではないか、という疑問が生じました。そのような主張をする人の表向きの建前は、「人間は能力や住んでいる場所 (東京都に住んでいるか、青森県に住んでいるか) にかかわらず平等だから結果も平等にしよう」という一見美しいように見える思想なのでしょうが、本音としては、「住んでいる場所」をものすごく限定した、特定の「お金持ちグループ」の中でだけで、所得の再分配をすればそれで満足、という思想なのではないか、と、そのような疑いが生じる訳です。


六本木ヒルズに住所があるお金持ちの人たちの間でだけ所得の再分配を行ったからといって、その他の人たちを含めて平等に所得の再分配を行ったことにはならないのは明白です。
東京都に住所があるお金持ちの人たちの間でだけ所得の再分配を行ったからといって、その他の人たちを含めて平等に所得の再分配を行ったことにはならないのは明白です。
関東地方に住所があるお金持ちの人たちの間でだけ所得の再分配を行ったからといって、その他の人たちを含めて平等に所得の再分配を行ったことにはならないのは明白です。
日本国の領域内に住所があるお金持ちの人たちの間でだけ所得の再分配を行ったからといって、その他の人たちを含めて平等に所得の再分配を行ったことにはならないのは明白です。


日本国の領域内に住所があるお金持ちの人たちの間でだけ所得の再分配を行うべきで、それ以外の領域の人は関係ない、我々は日本国の領域内に住所があるという「特権階級」なのである、という階級意識と、六本木ヒルズ内に住所があるお金持ちの人たちの間でだけ所得の再分配を行うべきで、それ以外の領域の人は関係ない、我々は六本木ヒルズ内に住所があるという「特権階級」なのである、という階級意識とは、本質的に違いがありません。そして、そのような住んでいる場所や社会での役職 (CEO か、サラリーマンか、フリーターか) などの状態によってグループ、クラス、階級が形成されてしまっており、それにより所得に格差があるが、その格差を解消しなければならない、という正論を盾に、所得の再分配を行うべきだとするのであれば、「六本木ヒルズ」の内側と外側を区別せずに再分配を行うべきだと主張する必要があり、「東京都」の内側と外側を区別せずに再分配を行うべきだと主張する必要があり、「関東地方」の内側と外側を区別せずに再分配を行うべきだと主張する必要があり、「日本国の領域」の内側と外側を区別せずに再分配を行うべきだと主張する必要があります。


本当に人々の間で所得の再分配を熱望する人は、「全世界 (地球) 」という大きな枠だけを定義し、それより小さな枠を恣意的に設定したりすることはないはずです。「六本木ヒルズ」という枠も、「東京都」という枠も、「関東地方」という枠も、「日本国の領域」という枠も、いずれも恣意的に設定された枠です。このような小さな枠、つまり部分集合は、は特定の人間によって独善的に設定されます。一方、「全世界 (地球) 」という大きな枠は、特定の人間によって設定されたものではなく、すべての人々を含んだ全集合です。「六本木ヒルズ」とか「日本国の領域」というような枠の是非は、人々の間で同意・不同意の議論が巻き起こります。一方、「全世界 (地球) 」という大きな枠は、全集合ですので、それの是非について、人々の間で同意・不同意の議論が巻き起こることは (地球外に人が住むようになったり、人と平等に扱われるべき ET が発見されたりしない限り) 絶対にありません。


「全世界 (地球) 」という大きな枠だけを定義し、その中における所得の再分配を熱望している人がいたとしたら、その人は、真に人々の間における結果平等を求めて所得の再分配を主張している人です。そのような人だけが、自己の利害にかかわらず、人々は平等であると説いて所得の再分配の啓蒙活動を行うに値します。


一方、特定の枠を恣意的に定義して、その中だけにおける所得の再分配を熱望している人がいたとしたら、その人は、人々の間における平等を真に熱望しているのではなく、必ず何か別に密かな利己的な意図を持っており、その自己中心的な意図を満たすために、所得の再分配を肯定する意見を主張しているということになります。しかし、その自己中心的な意図だけでは、すべての人々に対してルールを提示して従わせることはできないので、多くの人をうまく口車に乗せるために、「私は人々の間における平等を真に熱望している」というような主張をすることになります。そして、特定の枠内に限定した所得の再分配は人々の間の格差を無くし、公共の善に寄与するという論調を用いて人々を説得しようとするのだと思います。


所得の再分配を行うのが良いということを主張する日本人のほとんどが、「全世界 (地球) 」という大きな枠の話ではなく、「日本国の領域内のみ」という意志的な領域をあえて設定して、その中だけで所得の再分配を行うことを主張しているとすれば、そのような人たちは、六本木ヒルズの中だけで所得の再分配をしようという主張と変わりません。一部のお金持ちグループ (日本国の領域内で最低賃金で働いている人も全世界という枠で見ればお金持ちグループに属します) の間だけで所得の再分配をしようとしている主張です。なぜそのような主張が出てくるのか、よく考えてみます。その主張は「私は人々の間における平等を真に熱望している」というような「公共の善」を標榜するような理由から行われているのではないのではないかという疑いについては、先に述べました。すると、残された可能性はただ一つ、「実はその主張をする人自身の利益のためにそのような主張をしている」ということになるのではないでしょうか。


つまり、「全世界 (地球) 」という大きな枠の話ではなく、「日本国の領域内のみ」という意志的な領域をあえて設定して、その中だけで所得の再分配を行うべきだと主張することは、例えば、六本木ヒルズに住んでいる人はほとんど全員お金持ちだと思いますが、その中にも格差はあり、所得が高い人も、相対的に (お金持ちだけれども) 低い人も存在します。そして、相対的に所得が低い人は、相対的に所得が高い人からお金を欲しいと考えてしまうのは人間として自然な感情です。そのような感情が発生することは別に構わないことであり、悪いことではないと思いますが、とにかく、お金持ちであっても、相対的に所得が低いと、もっと所得が高いお金持ちのお金を自分のものにしてしまいたいという考えが発生するということです。
枠を恣意的に設定した「六本木ヒルズ」という境界から、今度は「日本国の領域」という境界に変更してみます。これまで何度か述べたように、日本国の領域に住所がある人は、世界全部という領域から考えると、ものすごくお金持ちです。1 日コンビニエンスストアでアルバイトをしただけで、その数倍の日数、十分に生活することができるだけのお金を得ることができるからです。このように恵まれた労働環境は世界でも有数ですので、日本国の領域に住所を持っている人はものすごい特権階級にいるということになります。その人たち、つまり世界基準で見るとお金持ちの人たちの日本の住民の間でも、相対的には、経済格差があります。そのような経済格差は世界基準で見たときに、翌日の蓄えがあるかないかという瀬戸際の人から見た場合、どうでも良い格差です。明日の食糧を購入することができるかどうかわからない人から見ると、日本国の領域に住所があるというだけで天国にいるようなもので、その中でさらに経済格差があったとしても自分としては一番最下位の低所得層であってもよいからそこに入りたいものだと切望するに違いありません。このようなお金持ち集団の「日本国の領域に住所がある人」グループであっても、その中には、相対的に所得がたくさんある人と、少ない人とがいます。そして、所得が少ない人は、多い人をうらやましく思い、本当は少ないといっても世界基準で見ればお金持ちであることには相違ないにもかかわらず、もっと所得が高いお金持ちのお金の一部を自分のものにしてしまいたいという考えが発生するのは当然のことだと思います。


このように考えてみると、どうやら、所得の再分配の範囲の枠を恣意的に「日本国の領域に住んでいる人に限定する」という境界に設定して、その上で所得の再分配の肯定の主張を声高にする人の真の意図というのは、真に人々の間の平等を実現することではなく、単に、自分は相対的に所得が少ないから、相対的に所得が多い人のお金を自分のものにしたい、しかし単に「欲しいから」という理由では説得できないから、利己的ではない何か美しい理由 (たとえば「人々の間の平等を実現する」など) を付加してそれを根拠に所得の再分配という形で結果平等を実現するというルールを作ろう、というそういう本当のところは利己的な意図が読み取れます。


利己的な意図を持つことは良いことであり、その意図を他の人に対しても示すことも良いことだと思います。しかし、本当は利己的な意図が主たる目的であるもにかかわらず、偽善を用いて、その利己的な意図を隠して、あたかもすべての人の利益になるような公平で平等な社会を目指そうと言って実際のところはそのようなものを真に切望している訳でないにもかかわらず大義名分としてそれを掲げて活動をするのは、良くないことだと思います。そうしてしまうと、冷静な議論ができなくなります。


相対的に所得が少ない人の立場から、所得の多い人に対して、所得の再分配をして欲しいと主張するのであれば、その主張は、「あなたの所得を私に分配して欲しい」という、利己的な欲求を正直に言うべきです。そして、所得が相対的に多い人は、それに対する答えとして、自由意志に基づき「私は私の所得の一部をあなたに分配することで嬉しい気分になるので分配してあげる」とか「私は私の所得の一部をあなたに分配しても単に損する気分になるから分配してあげない」というような返答をすることになります。両者の主張は単に両者の得たい物を挙げ、それが欲しいという欲求によって生じていることを正直に認めていますので、平等です。両者が合意した場合のみ分配が行われます。


一方、お金持ちのほうは誰に対しても特に理由が見当たらないにもかかわらず自分の所得の一部を分配させられてしまうことについては反対し、その反対の理由は当然、自分の所得が特に理由もなく他人のものになってしまう状況が「欲しくない」という利己的な理由であるにもかかわらず、その所得の分配を望む相対的な低所得者のほうからは、偽善に基づく理由、つまり本当は「自分がそのお金が欲しい」というのが真の意図であるにもかかわらず、建前としては「人々の間の結果平等を実現するために」というような大義名分を掲げて交渉をする、というのは、明らかに不平等です。そうすると、その真の意図を読み取ることに失敗した傍観者から見ると、あたかも、お金持ちは自分の利己的な欲求に基づき再分配を拒否しているように見え、一方低所得者のほうは自己の利己的な欲求ではなくもっと美しく公正・平等な平等主義という理想に基づき再分配を要求しているように見えてしまいますので、傍観者の数が増え、世論を形成して、時には暴徒のようになってしまう傍観者の出現により、二者間における冷静な議論をすることができなくなってしまいます。このようなことを防ぐため、「所得の再分配を否定する」意見を述べる場合も、「所得の再分配を肯定する」意見を述べる場合も、その所得の再分配が真に人々の間の普遍的な利益向上につながる目的「のみ」を意図している場合 (そしてその「場合」というのは、どうやら所得の再分配が、住所、職種、能力などの違いを超えてすべての人々を含む最大限の枠、つまり全世界という枠を設定した場合に限られてしまうのではないかということは先に述べました) を除き、必ず、両者とも、実のところは自己の利益のためにその意見を述べているのであるということを最初に明らかにして、それから議論に入るべきです。その両者の真の意図の開示をせずに議論を開始することは、議論の意味がなく、単に詐欺的な、相対的な低所得者による高所得者に対する恫喝ということになってしまいます。


ここまでの考えをまとめると、つまりは、「特定の領域中における所得の再分配」の必要性を声高に主張する人は、実は内心では、その特定の領域を意志的に設定することで自分の所得が増え、相対的なお金持ちの所得が減ることを期待して、そのような主張をしているということが疑われるが、一方、「特定の領域を指定せず、全地球単位での所得の再分配」を主張する人に限っては、真に、人々の間における結果平等の実現を目指してそのような主張をしている可能性もあるということを認めることができるということになるのではないかと思います。


そもそも、人々の間で結果平等を実現するためには、世界規模で見るとお金持ちである我々日本人のほとんどは、所得のうち 9 割以上を、発展途上国貧困層に分配して、初めて結果平等のための所得の再分配を行ったということができるという計算になってしまいますから、もし、日本国内において人々の間で結果平等を実現することが理想であると説き、所得の再分配を盛んに啓蒙する人がいたとしたら、その人に対して、あなたは常に自主的に所得のうち 9 割以上を、発展途上国貧困層に寄付し、結果平等のための所得の再分配に寄与していますか、と尋ねれば良いのではないかと思います。


もし本当に人々の間で結果平等を実現することに熱心な人であれば、人にそれを勧めたり強制したりする以前に、自分でも自主的にそれを実行しているはずです。自分でやったことがない「善行」を、人に対して、これは良いことだと主張して勧めたり、法律やルールを制定して押しつけたりしてはいけないと思います。特定の恣意的な枠を考えずに、世界規模で所得の再分配が必要だと真に思っている人であれば、その人はほとんどの自分の財産と所得をすでに発展途上国に対して寄付しているべきであり、そのように行動をした上で、それでも自分だけの所得ではどうやら限度があるから、他の人に対しても同等の行動を勧めるか、もしくはもっと急進的には、法律やルールを制定して押しつけたりするかすれば良いのです。


しかし、日本に住んでいる人で所得の再分配をもっと行うべきであると盛んに主張する人のほとんどは、そのような主張をするだけであって、本当に人々の間で結果平等を実現することに熱心な人であれば行うはずの発展途上国に対する財産の 90% 以上の自主的な寄付ということを行うのには熱心ではないようです。それは、すなわち、そのような所得の再分配論者が単に日本国内における自己の所得の向上 (他の人の所得の一部を自分のものにする) を求めて、所得の再分配を主張しているに過ぎないと考えるのが安全です。もし、本当に所得の 90% 以上をいつも発展途上口の貧困層に寄付している人が、人々の間での所得の再分配が必要だと盛んに主張しているのであれば、我々はその人の言うことに耳を貸し、真剣に議論する価値があると思います。しかし、それ以外の、自分では何も行動しない人が、所得の再分配をもっと行うべきであると盛んに主張していても、そのような人の意見は信用できないと思います。


本当に、世界の人々の間で所得の再分配をもっと行うべきであると真に願う人であれば、他の人にそれを勧めるような時間があれば、自分が努力して所得を増やして、その大部分を、自発的に世界の人々に対して寄付することで再分配を試みているはずです。そのようにして、得ている所得の大半を世界の人々に寄付して結果平等を実現しようとしている人の大抵は、ビジネスで成功した大金持ちのような人たちかも知れません。本来、所得の再分配がルールとしてより強力に制定されると、金銭的には必ず損をさせられてしまう立場のビジネスで成功した大金持ちの人たちが、ルールによらず、自主的に所得や財産の多くを寄付しているということは、その大金持ちの人たちには確かに、人々の間における結果平等、あるいは少なくとも機会平等を実現しようとしているという熱意があるのは確かだということになります。このように自主的に行動している人以外の人が、単なる口先だけで、「人々の間における結果平等を目指すのは素晴らしいことである、だからルールや法律を制定してより平等で均等な所得の再分配を推進しよう」というようなことを主張していても、その人の真意や熱意は信用するに値せず、無視することが正しいのではないかと思われます。そのようにして、この所得の再分配をどの程度まで行うのが良いのかという議論を考える上で参考になる所得の再分配論者の意見がそれぞれ検討に値するかどうかを判別するのが合理的で賢い方法なのではないかと思いました。