人間が生存するためには、自分の頭で合理的に考えなければならない

人間は、生存したいと思うのであれば、そのための具体的な方法を、何も考えないわけにはいかず、いい加減で非合理的な考えによるものではなく、かといって人に考えてもらうのではなく、自分の頭で合理的に考えて、判断・選択し、それによって行動しなければならない義務を自然によって自動的に負わされている。
生存するためにはこの義務を履行しなければならず、義務を放棄したときは遅かれ早かれ、まだ生存したいと考えているにもかかわらず、強制的に、自然によって死亡させられることになる。


自分の頭で合理的に考えることは非常に重要である。今のところ、その行為無しで、自分の希望通りに (生存し続けたいと考えているにもかかわらず死亡させられてしまうことなしに) 生存し続けるということを実現する現実的な方法は発見されていない。
なお、自分の頭で合理的に考えることは、その生存したいという希望を満たすための必要条件ではあるが、十分条件ではない。自分の頭で合理的に考えていたとしても、他の予期せぬ防ぐことが困難な出来事 (たとえば自然災害や、狂人によって殺害されるなど) によって、自分の生命が中断されてしまうことは起こり得るから、自分の頭で合理的に考えるということだけで継続的な生存が保証してもらえる訳ではない。しかし、自分の頭で合理的に考えることは、そういった不測の出来事から身を守り、そういうことが起こった場合に自分が被害を受けないようにするための事前準備を行うことができることにつながるので、そういったことにより死亡する危険性を軽減することはできる。ただし危険性はゼロにはならない。また、不老不死が得られる訳でもない。わずかでもリスクが存在していることと、寿命があることは、自然によって強制されている規則で、これを否定することは不能である。


一方、自分の頭で合理的に考えることを拒否した場合は、そもそも、自分の希望通りに生存し続けるということは不可能になる。自分の頭で合理的に考えて行動しないように決めた人のとることができる行動パターンは、以下の 3 通りのうちいずれかである。


1 つ目は、何も考えずに漠然としていることである。しかし、これでは食糧を手に入れることができないので、しばらくして、死亡してしまうから、良い方法ではない。


2 つ目は、非合理的に思い付いたままに行動することである。非合理的に行動するということは、直感によって正しいと思う行動をするという意味は含まない。直感によって正しいと思う行動をすることは、その直感が正しい指令を脳内で発してくれていることについて何らかの合理的な根拠を持っていて、その上でその直感に従うということだから、その行為は合理的である (たとえば、計算機の計算能力を信用している人が、その計算機が毎回正しく動作しているか検証することは不可能なことはわかっているにもかかわらず、その計算機の計算結果をもとにして行動を決め、代わりに自分の表面意識で筆算をすることを怠っていたからといって、その人が、合理的な判断で、責任をもって、その計算機の計算能力が信頼するに値すると考えてそれに従っているのであれば、それは合理的な行動である)。
この文脈での「非合理的に行動する」ということは、前述のような合理的な根拠なく、ただ単に、思い付きで無秩序に行動するという意味であり、いわば、サイコロを振って出てきた目で次の行動を決めるというようなことと等しい行為である。この方法では、満足な食糧を手に入れることができない。


そして 3 つ目は、他人が考えた結果に従って、他人がそう考えているというだけで、自分もそれと同様に行動するということである。たとえば、隣人がある行動原理を支持し実践しているのを見て、自分は、それに触発され、真似をするというような行動方法である。単に隣人というだけではなく、複数の人間の集合であるグループの多数決で決定された意見に従うというのも、同様である。


上記の 1 つ目と 2 つ目の行動パターンを選択するべきではないことは明らかである。そこで、ここでは、3 つ目の行動パターンを選択することについてよく考えてみる。


3 つ目の行動パターンにおいて、他人の考えた結果を真似するということは、自分にとって、有益な場合と、有害な場合とがある。
たとえば、他人が、リンゴを食べると栄養になると言ってリンゴを食べているのを見て、それを真似して、リンゴを食べて栄養を摂るのは、有益である。一方、他人が、キョウチクトウを食べると栄養になると言ってキョウチクトウを食べているのを見て、それを真似して、キョウチクトウを食べることは、それに毒が含まれているので、有害である (この場合、しばらくして、その他人も、自分も、二人とも病気になるか、死んでしまうかも知れない)。
つまり、自分は、その当該他人が言った意見を、他人が言っているからといって信用してはいけない。何か他の方法で、その意見が自分にとって有益か有害かを検証しなければならない。たとえば、リンゴや、キョウチクトウについては、植物に関して信頼に値すると自分の判断で合理的に考えられる文献 (百科事典など) を探して、それをもとに判断するか、もし合理的な判断の結果そのような文献が未だ信頼するに当たらないと考えるのであれば、たとえばそこらへんの実験動物 (ネズミなど) に事前に食べさせてみて死亡しないかどうかを自分で見て判断するか (ただし、ネズミが食べて死ななかったからといって人間が食べても大丈夫かどうかは、これだけではわからないのかも知れない) しなければならない。
合理的な人々が、自由意思で、リンゴを喜んで食べ、キョウチクトウを避けて食べないのは、何らかの合理的な根拠に基づいてそれらが有益か有害かを判断しているからであり、他人が食べているのを見たからではない(自由意思によらずして食べされられた昔の経験による場合もある。たとえば、幼少期において、保護者に強制的にリンゴを食べさせられ、そのとき、リンゴをおいしいと思い、かつ、それから何年かたってもリンゴによって自分が病気になったり死亡したりした事実がないので、自由意思によって、後日、リンゴを食べるか否かを選択するときには、食べるということを選択する。これも合理的な判断の形態の 1 つである)。


つまり、自分の生命を大切にするためには、3 つ目の行動パターン (他人の意見に従って行動する) を選択する際に、当該他人の意見について、それを、自分が思いついたアイデアを検証する場合と全く同様の手順に従って、合理的に検証し、その行動を行うかどうか判断しなければならない。
単に、周囲の人が皆そう考えているから、という理由で、その考えてに従って行動するだけではなく、その考えが合理的に正しい (つまりその考えを選択することが、自分の生命を、自分の希望によらずして死亡してしまうことを避け、継続的に維持するために有益である) かどうかを判断して、それに従うかどうか決めなければならない。


したがって、他人の意見に従って行動することができる状況であるからといって、そこで自ら合理的な判断を行うことが免除されるということにはならない。自分が思いついた考えであっても、他人の言っている考えであっても (それが少数意見か多数意見かにかかわらず)、その考えを選択するときは、自分の責任で、頭を使って、合理的に選択する必要がある。

不確実な事柄は、賛成者が多いという事実だけでそれが正しいと考えてはならない

上記は、少数意見のほうが一般に正しく、多数意見のほうが間違っているというようなことを主張している訳ではない。
多くの人が唱えている主張は、大抵の場合、正しいと思われる。たとえば、多数の人に、リンゴは栄養があるか、キョウチクトウは有毒であるか、というアンケートをすれば、ほとんどが、両方ともその通りだと言うであろう。また、実際にそれは両方とも正しいと思われる。しかし、リンゴは有益である、キョウチクトウは有害であるという知識について検討すると、リンゴとかキョウチクトウといった自然界に存在する物は、長い間その性質が変わっておらず、また、人類がそれについて検証してきた長い歴史が存在している (たとえば、これまでに何千兆個ものリンゴが安全に食べられてきた)。それ長い歴史がリンゴは安全だというような常識を作り、人々の間でそれが知られている。だから、アンケートを取ると、リンゴは安全で栄養があるという常識的な答えが多数を占めるし、また、その内容は正しいことである。


しかし、リンゴのような昔からよく検証されてきてほぼその有益性が間違い無い物は別として、それ以外の、ここ最近になって偶然流行り出した考え方のようなもので、かつ、まだ人類によって十分に検証されていないし、また、特にそれが正しいと思われる合理的根拠が無い類のものは、たとえ、多数の人がそれを正しいと信じていたとしても、正しくない可能性がある。それが正しいか正しくないかは、それを信じる人の数とはほとんど相関が無いと考えるのが安全である。
たとえば、科学的な仮説や、宗教や、政治的思想や、政策などは、それが正しいと思っている人が多いからといって、正しい可能性が高い (間違っている可能性が低い) ということは、全く言うことができない。
地球が平らで、航海すると崖から落ちてしまうとほとんどの人が信じていたからといって、その「地球が平ら」だということを、何らかの合理的な方法によって検証するまでの間は、その考えが正しいと言うことはできない。しかし、その状況では、間違っているということもできない。
一番確実で安全なのは、合理的根拠がない仮説について、それを「正しい」とも「間違っている」とも決めずに、それが正しかったとしても、間違っていたとしても、どっちの場合でも特に利益も損失も生じないような選択をすることである。ただし、何もしないのでは儲からないので、あえて、自分の合理的判断と責任において、それが正しいと思えるのであれば、それに対してリスクをとることも自由である。
たとえば、地球は平らで、また海の果てに断崖絶壁があると思われているときに、「それは間違っている。地球は丸いに違いない。」と合理的に判断し、交易船を購入し、貨物をたくさん載せて、貿易のための旅に出ることは、その判断者にとっては、合理的な考えに従って行動したのであり、他人がいくらそれは非合理的だといっても、その判断者にとっては合理的だったのだから、その判断者は正しい行動をしたのである。これは賭け・博打ではなく、また、サイコロを振った訳でもなく、単に、自分の合理的な考えで行った行動である (反対意見を持つ他人には、そうは見えないかもしれない)。その場合、その判断者が拠っていた合理的根拠に重大な間違いがあったとしたら、後に、判断者はそのことについて気付き、また、それによって自分に損失が発生した (最悪の場合は、生命を失うことになった) ことを認知し、自分の合理的な考えをするはずの頭が欠陥品であったことを反省し、次の重要な判断の時までに修理しておこうと決意するに違いない (もっとも生命を失うことになった場合はこの限りではないかも知れない)。


地球は平らだと思っていたところ、隣人の頭のおかしい (ように自分には見える) 船乗りが、「地球は丸い」と突然言い出して、地球の裏側の人との間で貿易するために、交易船と交易物品のための資金を集めたい (当然、儲かったらあとで出資者の間で配分することは約束する。しかし損失が出たら資金は返ってこない) と提案してきた場合について考える。
もし、その頭のおかしい (ように自分には見える) 船乗りの周囲の人が、その新しい考え方について熱狂し、熱狂のあまり合理的な判断を損なって、皆が自分の財産を、その船乗りに自主的に供出し出したとする。その状況で、自分はどのようにするべきか。単に周囲の皆が熱狂的に自分の財産をその冒険のために供出しているからといって、自分も、熱狂してそれに付和雷同してはならない。一番良いのは、その熱狂している周囲の急進派の人たちに、何か合理的な根拠があってその出資をしようとしているのか、それとも気まぐれで、雰囲気によって後押しされてその出資をしようとしているのか、を聞いてみなければならない。そのうち 1 人でも、合理的な根拠があるといって、その根拠を教えてくれて、かつ、自分でもその理論をよく検証してみて、確かに正しいと自分で合理的に判断できれば、出資するべきである。その「十分に検証する」という行為に要求される厳重さは、その「地球は丸い」というアイデアが、自分で思いついたときでも、他人によって思いつかれたときでも、同等に厳重である必要がある。
もし、自分で検証してみた結果、「地球は丸い」論が正しいと判断するのに合理的な根拠を見つけることができなかったときは、いくら、他人が、それは正しいと言っていても、また、他人が「地球は丸いことを合理的に説明するための論文」のようなものを出していたとしても、それを聞いたり読んだりして検証し (その検証の過程で、自分と同じくらい頭が良い信頼できる他人の意見を聞いてヒントを得ることは有益である。自分 1 人だけで閉じこもって検証しろという意味ではない)、自分の頭で合理的に納得することができないのであれば、それに出資してはならない。
そして、自分が出資しなかったその事業の経営者である隣人の頭のおかしい (ように自分には見える) 船乗りの「地球は丸い」論が正しかったことが後になって報告されたのを見ても、合理的な判断でそれに出資しなかった人は、後悔することはない。なぜならば、その合理的な判断でそれに出資しなかった人にとっては、その事業の報告が来るまで、「地球は平ら」か「地球は丸い」かのどちらが正しいかどうか判断する術はなかったのあり、そこを「地球は丸い」ほうに仮に賭けていたとしたら、儲かったかもしれないが、それはギャンブルをする (宝くじを買うとか、ブラックジャックをするとか) と本質的に同じ行為であるからである (もちろん、自分は運が良いので、ギャンブルをすれば儲かるに違いないと合理的な判断の結果信じるに足る人は、ギャンブルをしても良いし、するべきである。ただし、その合理的な判断が本当に合理的かどうかは、その人が、自分の責任で、慎重に検証しなければならない)。

私的投資事業の安全性と政府による公共投資事業の危険性

上記の交易船の事業のような仮定の話は、現代においては、(1) 金融商品市場とか、(2) ベンチャー投資とか、また、(3) 政府の公共投資といった話にも当てはまる。


(1) と (2) はどちらも、合理的な判断で、出資者個人個人が、それに投資するか投資しないかを合理的に考えて選択することができる。
事業運営者側は、合理的な指針 (つまり、その事業がどれだけ儲かり、どれだけ出資者個人の利益を生み出すか) を文書 (目論見書) や口頭 (説明会) で示す。それを読んで、たとえば、山田さんは、合理的に儲かる可能性が高いと思い、それに投資する。木下さんは、無関心なのでそれを読まないか、または、読んでも、非合理的だと思ったのであえて投資しない、という具合である。
事業がうまくいけば、山田さんは利益を得る。木下さんは得も損もしない。事業が失敗すれば、山田さんは損失を得る。木下さんは得も損もしない。木下さんは、無関心であり、無関係である。木下さんに被害は出ない。


一方、(3) の政府の公共投資は、性質が異なる。
まず、本来理想とするプロセスとしては、政治家は、合理的な指針 (つまり、その事業がどれだけ税金の出資者である納税者に対して将来的利益を生じさせ、どれだけ納税者の富を生み出すか) を文書 (マニフェスト) や口頭 (演説) で示す。
それを読んで、たとえば、90% の人は、非合理的な判断で、政府または政治家の言うことだから内容は検証しなくても信用しても良いはずだと思い、それに賛成の投票をしたとする。10% の合理的な人は、よくその政治家または政府の説明を読んだところ、どうやらそれは失敗して納税者にとって損失が生じるのではないかと考え、合理的な判断に基づいて、反対の投票をしたとする。
結果、賛成多数なので、その事業のための出資金として、税金が全員から徴収される (その事業が非合理的であると思って反対していた人からも徴税される)。そして事業が失敗すれば、90% の非合理的な人も、10% の合理的な人も損失を得る。誰も得をする者がいないという結果になる。(1) や (2) と異なり、または、事業について関心があったので説明を読んでみるとこれはどう見ても非合理的で失敗するに違いないと思っていたので反対した人も、その損失を支払わされる。
これが、公共投資の危険なところである。


私的投資であっても、公共投資であっても、出資者それぞれが、合理的に判断し、それに手を出したほうが利益に適う (すなわち、究極的には、自分の財産、より現実的には、生存に必要な食糧その他のエネルギーが、老衰死するまでの間に尽きないような十分な量確保できる、そしてまた食糧以外の価値のある楽しみのために消費できる財産も確保できる) と思った場合にだけ、その人が投資をすれば、問題は生じない。その事業が失敗した場合に、損をするのは、合理的判断をしたと思って投資した人だけである。結果として、その投資者は、自分の損失によって痛い思いをして、自分の合理的な考え方に、気づかなかった欠陥があったことを認め、次の投資の機会までにそれを修理しておこうと考える。つまり、より賢くなる。
一方、誰でも強制的に (賛成派の人数が反対派の人数よりも多いという理由だけで) 強制的に参加されられる公共投資というのは、多くの人が合理的判断をする能力が無い状況では (つまり、投票をするときに、その投票行為が合理的判断によって行われたものか、それとも、周囲の雰囲気や熱気に押されて非合理的に投票するものなのかを判断する技術的方法が無い状況では)、合理的判断が介入する余地がなくなってしまうので、その投資事業に失敗して損失が出たときに、その原因を「多数の賛成派が賛成していたのだから仕方が無い、誰にも責任はない、あきらめよう」という、危険な安心感のある結論に帰着させてしまう。
自分に責任があることを悟って痛い思いをするということがないから、国民は、合理的判断をしなければならないという、本来回避することができない責任を、短期的なその危険な安心感のある結論によって一時的に回避してしまう。これが何十年、何百年続いたところで、国民が賢くなることはない。一方、経済的損失は、常にある一定の確率で生じてしまう (公共投資は、非合理的な判断をし続けている限り、一定の確率で頻繁に損失を生じてしまい、合計すると大幅なマイナスとなってしまうためである)。
そのままでは、賢い合理的な選択をする他の国家に、国民が賢くないままの国家は、次第に負けてしまう。

全納税者に政府が公共投資を強制することの非合理性

政府が主体となる公共投資で、かつ、税金を財源とするものは、いってみれば、以下のような状況に似ている。
たとえば、山道で道が左と右に分かれているとする。ここに 3 人の登山者がいる。3 人の食糧は尽きかけている。立ち止まるか引き返すと食糧はなくなり餓死してしまうことがわかっている。左へ行くか、右へ行くか、選択しなければならない。どちらかの道の先には、食糧小屋があることがわかっている。また、反対側の道の先は、行き止まりであることがわかっている。しかし、左右のどちらが正しいか、3 人の間で統一見解がない。どちらの道も、一度選択すると、引き返せない状況だとする。
3 人 (A さん、B さん、C さん) は左右に分かれる所で立ち止まる。A さんは、昔、地図を見た記憶があり、左の道を行ったところに食糧小屋があった気がするということをかすかに覚えている。だから、A さんは、左に行きたいと思っている。
B さん、C さんにはそのような知識はないが、B さんは知ったかぶりなので、特に根拠無く「右が正しい」と主張する。B さんは知ったかぶりなので、特に合理的な考え無く物事を決めることが多く、また、一度主張したことは、撤回したくない人である。さらに、声が大きく、暴力も得意である。
C さんは、あまり強くはないが、合理的な考えよりも、声が大きい考えに従ってしまう頭の弱い人である。
ここで、B さんが「右が正しい。特に根拠はない。」と言ったところ、A さんは当然「私は左が正しいと思い、その理由は、地図にそう書いていったからだと思うが、100% 確かではない。しかし、右が正しいという根拠は B さんには無いようなので、私は左へ行く。」と言うであろう。それを聞いた B さんは怒って、「右が正しいに決まっている。一度言ったことは撤回しない。」と大声で言う。C さんは B さんの大きな声が好きなので B さんに賛成する。
A さんは「私は左が正しいと自分の責任と判断で選択するが、100% 正しい確証はないので、B さん、C さんの意見も尊重する。そこで私は左へ行くが、B さん、C さんは右に行けばよい。」と言う。すると、B さんは「多数決で決めたことに従え」とか「一部の人だけが生き残って他は死ぬのは許せない」とか言ってとても怒り出し、C さんと一緒になって、A さんを強制的・暴力的に連行して右の道へ連れて行く。
結果としては、A さんの記憶の中にあった地図は正しく、左が正解であり、右へ行くと何も無いので、3 人とも餓死してしまう。


このストーリーでは、自己の責任において自己の行動を決定するための根拠として合理的な判断をした A さんに対して、B さん、C さんは非合理的な判断に基づいて A さんとは反対の結論を出した。この時点で、A さんは左、B・C さんは右に自分の責任で行けば良いのである。しかし、B さんは多数決の結果を暴力的に A さんに押し付け、3 人とも右へ行ってしまい (A さんとしては自分の意思とは関係無く右に連行され)、そして 3 人ても死んでしまう訳である。
このように、どちらを選択すれば良いのか、はっきりした指針が無く、不確実な状況においては、多数決によって物事を決めてはならない。逆に、サイコロを振って決めればよいという訳でもない。そうではなく、各自がそれぞれ自分の頭で合理的に考え、その結果出てきた結論を、各自が採用すれば良いのである。


だから、政府は、税金を財源とする事業は、成功するか失敗するか不確実な状況においては、実施しないほうが良い。それを実施することは、納税者のお金を使ってギャンブルをする行為である。
一方、政府が主体となって、希望者に対して正確にリスクを説明し、税金とは別に、出資金を国民から集めて、それで事業を行うのであれば、それは、私企業が運営する事業と同様に、失敗した場合の損失は、それに投資をした (またはその他の形式でお金を貸した) 人だけで責任を負うことになり、無関心な人、または反対意見のある人にとっては損失はないので、大変良いことである (ただし、政府がその損失を埋めるために税金を使ってはならない。また、そもそも、それをやるのであれば民間企業が行えば良いのではないかという主張も有り得る。)

例外: 自分の頭で合理的に考えなくても良い場合

人間は選択をするときに自分の頭で合理的に考えなければならず、それによって得た利得または損失は、すべて、その考えをして決定をした人が得ることになる。
これは、つまり、人間は、自分の頭で合理的に考えとしてもそうでなかったとしても、自分が何らかの指針に従って (または指針無しにやみくもにサイコロを振って) 選択したとても、自然は、その結果を、結果が出るまでは一切事前に保証してくれないということである。自然が保証してくれないのだから、損失が出たら、自分が補償するしかない、という考え方である。


最終的に、選択による結果は、自分が被ることになる訳だから、他人の意見が、なぜかわからないけれど信用できそうだからだとか、熱狂的または多数派だからというだけで、それに従ってはならない。
必ず、自分の頭で合理的に検証・判断して、その選択を行わなければならない。
なぜならば、他人の意見に従った結果損失が生じたからといって、その他人が損失を埋め合わせてくれる訳ではないからである。


逆に言うと、例外として、他人の意見にただ何となく従って行動し、かつ、自分の頭でその意見が合理的かどうか判断することを懈怠することをが許される状況も考えられる。
その条件とは、唯一、当該他人が、その他人の意見にただ何となく従って行動した人に対して、それによって生じるリスクを、事前に埋め合わせるだけの報酬の支払を保証してくれていて、かつ、その支払いが確実である場合のみである。
たとえば、単純労働者等がこれにあたる。単純労働者等は、自分の頭でその指示内容が合理的かどうか判断せずに、経営者の指示通りに作業をする。合理的か否かの判断はしていないので、たとえば、経営者が、工場労働者に、「イスを 1,000 脚、このマニュアルに従って組み立てろ、何も考えることはない。」と指示したら、工場労働者は、それに従えばよい。
単純労働者等は、その指示のマニュアルが合理的かどうか (そのマニュアルに従えば、本当に商品価値があるイスができるのか)、および、その 1,000 脚のイスが本当に市場で売れて、経営者にとって十分な利益が生じるのか、ということを、自分の頭を使って考える必要は全く無い。
その工場労働者にとっては、商品価値が高いイスが生産されなくても、または、イスがそもそも 1,000 脚売れなくても、それは経営者の指示に従っただけである。単純労働者である限り、経営者の指示が正しい (合理的) かどうか、頭を使って判断する必要は無い。経営者は、その単純労働者に対して、予め、金額を定めて給与の支払を保証しているからである。その給与は、イスが売れたか売れなかったかにかかわらず、また、経営者が利益を得たか損失が生じたかにかかわらず、単純労働者に対して、必ず支払われる。単純労働者にとっては、頭を使って判断をする必要やそれによって生じるリスクは全く無い (ただし、単純労働者の能力がなく、指示通りにイスが組み立てられない場合は、給与は支払われないかも知れない)。


だから、経営者の指示に従うだけの単純労働者にとっては、他人 (経営者) の意見が、なぜかわからないけれど信用できそうだから (経営者というのは偉いのだろう、とか) という理由だけで、盲目的に、それに従い、自分の頭を使わず、判断もせず、その他人 (経営者) に従えば良いのである。その代わり、その単純労働者は、「合理的な判断をする」という人間にとって最も価値が高く、また、難易度の高い作業をしていないから、その「合理的判断」という行為に対する報酬はもらえない。その報酬を受け取るのは、当然、合理的な判断をして指示を出している経営者である。


経営者が、単純労働者に対して、その単純労働者が考えた合理的な反対意見 (たとえば、こんなイスを 1,000 脚も作っても売れないと思いますよ、とか) を無視し、その経営者の意見に従って作業をすることをその単純労働者に対して強制し、よって損失が経営者に生じたとしても、その経営者の責任である。単純労働者は、そのイス製造事業によって利益が生じようが、損失が生じようが、予め定められた賃金報酬をもらうだけである。

単純労働者であっても絶対に自分の頭で考えなければならないことが 1 つだけある

自分の頭を合理的に使うことが嫌な人でも、現代社会においては、上記の例のように、誰か他の賢い人 (経営者) に合理的に考えてもらって、その考えを、自分では判断せずに、単に盲目的に従って行動するというだけで、賃金報酬を得ることができるのである。
しかし、だからといって、そのような単純労働者が、生きていく上で、全く、合理的な判断を自分の頭を使って行う必要が無いという訳ではない。
先ほど、「例外として、他人の意見にただ何となく従って行動し、かつ、自分の頭でその意見が合理的かどうか判断することを懈怠することをが許される状況も考えられる。その条件とは、唯一、当該他人が、その他人の意見にただ何となく従って行動した人に対して、それによって生じるリスクを、事前に埋め合わせるだけの報酬の支払を保証してくれていて、かつ、その支払いが確実である場合のみである。」と書いたが、そのような支払いが保証されるかどうかは、その単純労働者が、労働行為を開始する前に、確かめる必要がある。
その検証行為を実際に行う際だけは、どうしても「自分の頭を使って合理的に考える」という必要がある。これを忘れてはならない。具体的には、自分が勤務する先の会社の経営者が「確かに賃金を支払ってくれるだけの信用できる人物であるか」ということ、および、「その支払に係る賃金の財源は確保してあるのか」ということを確認しなければならない。これを確認するためには、絶対に、自分の頭を使って調査し、判断しなければならない (なぜならば、この確認を行うことを怠り、誰か他の人の意見に従うことは、先ほどの理論により、当該誰か他の人が、その意見が間違いだったときにそれによって生じた損失を穴埋めしてくれるだけの支払いの保証を予め約束していることが前提になり、それは、まさに単純労働者と経営者との関係であるから、これが再帰的に無限に続いてしまうことになる。したがって、どこかの段階では、やはり、どんなに頭を使うことが嫌な人でも、頭を使わなければならない)。
また、単純労働者としては、自分の時間を使って労働をしたとして、その苦労に見合うだけの賃金報酬の支払を約束してくれる経営者を探さなければならない。もし、自分の時間を使って労働をしたとして、それに比較してとても割に合わないような金額しかもらえないような経営者だということがわかったら、すぐにそこを離れて、別の経営者のところへ行かなくてはならない。

日本国政府は納税者サービスにおいて外国政府との競争に勝たなければならない

上記の理論と類似するものとして、以下のように考えることもできる。
たとえば、政府の言うことを盲目的に強制される納税者に対しては、政府は、当該政府がこれから行おうとする強制的な指示 (たとえば税金をいくら徴収する、といった、納税者に対して何らかの労働を強制するような指示) とそれによる政府の公共投資について、仮に、その政府の公共投資が失敗し、損失が出たとしても、納税者に対しては、損失が生じた分の税金の金額と少なくとも同等またはそれ以上の金額を、後から損失補填として穴埋めするだけの十分な支払が保証されていなければならない。
なぜならば、先ほどの「労働者」と「経営者」との関係と異なり、少なくとも、国内においては、「納税者」と「政府」との関係は、強制的だからである。
「労働者」は「経営者」の信用能力や支払い額が気に入らないと思ったら、別の「経営者」のところへ行けば良い。しかし、国内においては、「納税者」は「政府」の信用能力や支払い額が気に入らないと思ったら (たとえば、たくさん税金を納めているのに、あまり良いサービスが受けられず、そのサービス価格を合理的に計算すると、損しているように見える、など)、他の「政府」のところへ行けば良い、ということにはならない。
なぜならば、政府は同一国において 1 個しか存在しないからである (ただし、最近では、結構簡単に好きな国へ移住することができるようになったので、これはあてはまらないかも知れない)。
政府は、納税者に対して、納税 (=指示通りに税金を拠出すること) を強制しているのであるから、少なくとも、納税者に対して、納税した額以上の見返りを提供する義務がある。そうしなければ、納税者は、納税する意味が無いためである。


昨今、日本における産業空洞化が話題になっているが、一般的には、海外国における労働力が安価だとか、資源の調達コストが低いとか、円高だというような理由で、生産拠点を海外に移す動きが原因だということになっている。


しかし、もしそうだとしたら、「そもそも単純労働者はほとんど不要」で、「資源もあまり消費しない」上に「外国為替の影響も少ない」ような産業については、無関係だということになる。たとえば、少人数で開発したり運営したりすることができるソフトウェアやインターネット事業などである。しかし、明らかに、近年、これらの知能産業 (上記においていえば、自分の頭で合理的に考えることが特に重要な産業) に関わっている優秀な頭脳が海外に流出しているか、またはこれから流出しようとしている傾向が感じられる。


その理由は単に海外国における労働力が安価だとか、資源の調達コストが低いとか、円高だというような理由だけではなく、もっと根本的なところにおいては、前述のような、人間の行動指針を決定する根本的ないくつかの原理に反する行為を政府や政治が行っており、さらに、今後ますますその傾向が酷くなりそうだという状況が原因である可能性がある。


「なぜならば、政府は同一国において 1 個しか存在しないからである (ただし、最近では、結構簡単に好きな国へ移住することができるようになったので、これはあてはまらないかも知れない)。政府は、納税者に対して、納税 (=指示通りに税金を拠出すること) を強制しているのであるから、少なくとも、納税者に対して、納税した額以上の見返りを提供する義務がある。そうしなければ、納税者は、納税する意味が無いためである。」と上述したが、現在、日本の政府は、このように、納税者にとって、「納税額あたりの政府から受けることができるサービスの価値」を高める努力をしているだろうか。
高める努力をしている政治家もいるかも知れないが、結果として、「納税額あたりの政府から受けることができるサービスの価値」はあまり高まっておらず、外国政府のほうが高くなっている場合がある。
その場合、納税者は、当然、「最も安く政府サービスを購入できる」という理由から、外国政府の基に流れていく可能性がある。特に、重工業や物理的なサービス業ではなく、知能労働的なサービス業から、その傾向が強くなると思われる。なぜなら、知能労働的なサービス業は、電力と通信回線、および必要最低限の治安が確立されていれば、世界中どこでも事業を行うことができるためである。さらに、重工業や物理的なサービス業は過酷な競争によって利益率が低下しているが、これと比較すると、知能労働的なサービス業は、利益率が比較的高い。税金は、利益からしか取れないので、知能労働的なサービス業がますます世界における重要度を増していく中で、それらが流出することは、日本政府の財源を悪化させる原因となる。


もし、日本政府に携わっている人が、合理的な判断を行う能力があるのであれば、特に外国政府の基に流出しやすい知能労働的なサービス業の経営者にとって、それらが流出せず日本国内において事業を継続してもらえるように何とかして必死に頼み込み、また、外国政府の基に流出することと比較して、日本国内に留まったほうが良いという何らかの合理的なインセンティブをそれらの事業者に対して提示する必要がある。